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2006/07/18

3+2×4ができませんでした

リンク: 極東ブログ: 3+2×4をどう読む?.

休みの日、相方に突然「あのさ、3たす2かける4は?」と言われた。

わたし「20」

相方「違う」

わたし「えーっと……、24(←それは3×2×4だ)」

相方「違う」

わたし「んと、んと、18(←それは3×(2+4))」

相方「……」(ニヤニヤ)

わたし「…………、11だ!!」

相方「君は、4割のほうだね」

そう!わたしは「一貫した論旨の展開や数学的な思考が苦手」(産経新聞記事より)なんである!!

もちろん「掛け算は、足し算より先にやること」ってのを教わっているので、たぶん筆記試験だったら間違えない(……と、思う)。でも……、「2たす3かける…」って言われちゃうと、相手が言う順番に計算しちゃうのよ~~~!!!

そんなバカが間違えないためにfinalvent先生が提唱する「数式の読み下しかた」。

3+2×4は、「3・に・2・かける・4・を・たす」と読むといいのだそうです。

それだと日本語的には「3\(←「に」にあたる記号を適当に考えた)2×4+」じゃね??とか思いたくなるんだけど、漢文にレ点を付けて読み下すのと同じだと思えばよろしい、と。

また、先生は「数学ができる子とそうでない子の差は、こうした数学という言語をそのまま、英語のように外国語として理解する能力」なんじゃないの、ともおっしゃっており、そう、数学はひとつの論理体系であって、日本語としてとらえようとしてはいけないのです。

確かに、英文を読むとき、単語をいっこずつ日本語にして組み合わせたりはしないよなー。全部読んでから(そのとき日本語の論理体系はアタマから排除されている)、大意を日本語で考えるかも。逆はあまりうまくできないんだけど。わたしは外国語全般も大変苦手なので、両者を理解する能力の根っこは同じかも、とか言われると納得してしまう。

しかし、「一貫した論旨の展開や数学的な思考が苦手」だとほんと困りますよ。先週もお金の勘定がまともにできなくて、友達に「いずみん、それだと払いすぎよ」って言われるまで気がつかなかった。

そういう、ある面における極端な能力不足をどう補うか??という話は次回。

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2006/07/04

NPCな人生

リンク: 九尾のネコ鞭.友人の恋愛体験談なぞを聞いて俺が考えたストーリー

注:非モテ…「もてない人」。異性に恋愛感情をもたれない人。

  エロゲー…エロいゲーム。ほとんどが男性向けであるため、男性に都合のよいストーリーが用意されている点ではAVと同じ。

  NPC…「ノンプレイヤーキャラクター」の略称。 通常は「操作できない登場人物」をさす。

すごくよくできたお話。「マトリックス凡人編」て感じ。いやー、われわれの人生、たいていNPCなんですよね。流されがちだし。

似た話で言うと、「前世話」つうのがありますね。なぜだか鑑定される人みんな、どっかのお姫様とか著名な武人とかになってしまうという。過去の地球の人口構成を考えたらそらねーだろ、みたいな。

その点、以前友達4人で聞きに行った前世話はよかったですな。

「あなたたち4人は、前世も同じ村で暮らしていました。4人で力をあわせて狩に出かけたりしていました」。

超納得♪♪♪

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2006/07/03

リセットしたい人々

リンク: 玄倉川の岸辺:ハンカチを窓から投げ捨てろ!.

鏡の法則(ハンカチを用意して読め!)というエントリが話題になっているらしい。愚にもつかない話なのでそっちにはトラックバックは打たない。どのへんが愚にもつかないのかは読んで判断してください。

玄倉川さんが

以前、「水からの伝言」という記事を書いたときにも思ったが、あまりにも多くの人たちが「いい話」「泣ける話」「感動」への警戒心を持っていない。
婉曲に言えばお人よし過ぎ、ナイーブ過ぎであり、はっきり言えば愚かしい。

と書いているのを読んで、そういえばこの手の話に引っかかる人は、たぶん「もし世界が100人の村だったら」にも感動するんだろーなー、と思った。

実のところ、ダメな自分(人に嫉妬したり、できないのを誰かのせいにしたり、面倒くさがりだったり、弱いものをバカにしたり等々)をリセットして、澄んだ心の善人になりたいと思っている人って意外と多いのかもしれない。魂の救済とか、来世で天国にとか、そんなことではなくて今、立派な心栄えの人になりたいと。

わたしはあまり宗教について考えたことがないのでここからは(ここまでもだが)シロウト意見になってしまうが、かつての宗教では、聖と俗が分離していて、ひたすら祈ったり修行したりする聖の人に対して、俗の人はそれを「徳の高いお方」として尊敬して寄進したりしてたんだと思う。しかし今の日本では(欧米ではプロテスタント普及以後か?)、俗の人が俗のまま聖に近づきたがってるように思える。そのために、感動する話を読んで、自分の行動をいくらかでも変えたいと。

しかし、俗=日々の生活にまみれたしょーもない存在=上に書いたダメな自分、であることを維持しながら聖となる、つうのは本当はすごく大変なんじゃないだろうか。それを成し遂げるためには、絶望しながら考え続けるしかないように思う。

わたし?わたしもいちおう絶望しながら考え続けることはしようと思うが、こんな中途半端で聖にたどりつけるような気もしないので、せっせと神社でお札もらったりお寺で手を合わせたりしようと思います。

この話も相当ひどい。どのようにひどいかはこのへんを参考。

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宝くじを買う人は幸せか

リンク: 吹風日記 - 宝くじの異常、幅3000kmのボウリング、世界で最も有利なギャンブル.

久しぶりに最後まで読んでよかったエントリ(もちろん普通にためになるエントリは世の中いくらでもある)。

宝くじは公営のギャンブルだ。そしてその収益の使われ方からして非常に税金ぽい。ところが、宝くじを買っている人をよく見ると、「購入者が社会的弱者に偏っている」のだという。なぜか?「人生に希望が見いだせない人、すなわち、社会的階層が今の不満足なレベルのままで固定されてしまうと予感した人々が、未来をかき乱すための「異常」を求めて、宝くじを買う」から。

有名な木村敏「異常の構造」を引いて説明しておられます(自分も昔読んだのに、さっぱり中身を覚えてない…凡ですな)。

難しく言わなくても、「年収1億円なんて、宝くじにでも当たらないとありえないよねえ」とか昼飯食いながら言ったりしてる、アレのことですね。

一方で宝くじの期待値が非常に低いことをもって、他のギャンブルやる人は宝くじを買う人をバカにしたりするわけですが、よく考えてみると、というのが後半。コメント欄含め、非常に興味深い話です。

さて、わたしはたまたま、非常に負けず嫌いということもあってギャンブルをやらないのですが、非常に身近なところに宝くじ大好き人間がおります。

相方と、父(義父じゃなくて実父)です。

こんなことを母に言おうものなら、また「アンタはほんとに父さんに似た人を見つけてきたねえ」とせせら笑われますが、そんなん狙ったわけやないで!!(似非関西弁)

相方も、父も、なぜかジャンボ宝くじを売っているのを見つけると吸い寄せられるように買いに行きます。そしてそのまま、忘れるのです。。。

あんたらは秋のシマリスか!!

日ごろ金がないとぼやいてばかりの彼らがなぜ宝くじに大金(諭吉1名とか)を投じるのか、本人に尋ねてもまったく要領を得ず、ずーっと不思議だったのですが、このエントリ前半からすると彼らはやはり「人生に希望が見いだせない人、すなわち、社会的階層が今の不満足なレベルのままで固定されてしまうと予感した人々」なのでありましょうか。それとも後半に出てくるような点に注目した鋭い人々なのでありましょうか。

どっちみちビンボー人のささやかな娯楽、に違いはないんですが……

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